今回の小説はライオネルの原作前の過去想像です。
自分が自分だと認識した時、他には何も判らなかった。
自分の名前も、今居る場所が何処なのかも、何処に行って、何をすれば良いのかも、何もかも全部、判らなかった。
それでも此処には居たくないという衝動に駆られ、何処へとも知れず、歩き出した。
何分、何時間、何日、何週間、何か月、どれ位の時間が経ったか判らない。
体が求めるままに、殆ど意識を失う様に眠りに落ちる。
その直前、誰かの声を聞いた気がした。
額に何かを乗せられるのを感じて、意識が浮上する。
「お?気が付いたか?」
瞳を開けて最初に認識したのは、自分を覗き込む、金色の瞳だった。
「喉渇いてないか?水を持って来たんだが」
青年は促されるままに、水を口にする。
「俺はプレフィス、プレフィス・カムフォートだ。お前の名前は何だ?どうしてあんな所に居たんだ?」
「・・・判らない。何も、判らない」
その言葉を聞くと、プレフィスは神妙な顔になった。
「何か思い出すまでうちに居るか?うちはリリィと2人暮らしだからな。1人位増えても大丈夫だぞ?それとも、行く当てがあるのか?」
青年は少し考えた後、顔を振る。
「なら決まりだ。まずはとりあえず、名前を付けなきゃな」
「名前?」
青年は何処か戸惑いがちに呟く。
「呼び名が無きゃ、不便だろ?うちに居る時だけでも」
「・・・それが必要なら」
青年が躊躇いがちに頷くと、プレフィスはう〜んと唸って考え込む。
「ライオネル、はどうだ?」
「え?」
「俺の爺さんの名前なんだが、強運の持ち主だったんだ。お前にもご利益があるかも知れないぞ?」
青年の開いた口が何かを言う前に、ドアがノックされた。
「お客様です」
「判った。直ぐに行く。知らせてくれてありがとうな、リリィ。そう言う訳で、続きは後だ」
プレフィスは青年を振り返った後、ドアを飛び出して行った。
青年が少し心許無さそうに見えたから、リリィはふっと優しく微笑み掛ける。
「はじめまして、私はリリィと言います。プレフィスの妻です」
その時、昼を告げる鐘が鳴った。
「私も食事の用意がありますので、失礼させて頂きます」
リリィが音も無く閉めたドアの中では、青年がある言葉を呟いていた。
「ライオネル」
ライオネルは常識を殆ど知らなかった。
言葉はしゃべれても、読み書きや挨拶は出来ない。
食べる事や飲む事は出来ても、ナイフやフォーク、スプーンの使い方は判らない。
何より人として当たり前の、道徳と言う物を理解出来てなかった。
だから最初にそれから始めようとしたが、思った以上に難しい。
何故しなくてはいけないのか、何故してはいけないのか、プレフィス達も理由をはっきり説明出来るほど、理解している訳ではない。
只当たり前の事を、当たり前として受け入れているだけなのだから。
結局、ライオネルの常識が一般レベルになるまで、1年近く掛かった。
そしてその頃になっても、ライオネルの記憶は戻っていなかった。
ライオネルは思う。
このまま戻らなくても良い。
プレフィス達は思う。
記憶が戻っても、此処に居て欲しい。
3人はもう、家族になっていた。
ある麗らかな昼下がり、太陽に負けない顔で、プレフィスは笑う。
「俺とリリィの子供が此処に居るんだ」
プレフィスはリリィの腹を撫でながら、愛しげに瞳を細める。
「子供?」
命と言う物を、ライオネルはまだ、判っていなかった。
「もうそろそろ、赤ちゃんが動くのが判ると思いますよ?」
リリィはライオネルの手を掴むと、自分の腹に触れさせる。
「!?」
赤ん坊が動くのが判ったのだろう。
ライオネルはびっくりして、手を腹から退ける。
「もう少しで、産まれて来るんですよ?」
「産まれる」
「そう。此処には、命が宿っているんだ。もう1度触れてみろ?」
プレフィスに促されるままに、ライオネルは恐る恐る触れる。
暖かい。
ライオネルは胸の内で呟く。
それが、ライオネルが命という物を、本の少し理解した瞬間だった。
そして産まれた赤ん坊を見た瞬間、強く思った。
命とは、とても眩い物なのだと。
「ライオネル。この子の名前が決まったぞ」
プレフィスは赤ん坊を抱いているリリィの横で、1枚の紙を広げる。
「ヨハンナだ」
「ヨハンナ」
ライオネルはその名を口にしていると、頭の中で、何かが引っ掛かっている様に感じた。
「どうした?ライオネル」
心配そうなプレフィスの声に、ライオネルははっと我に返る。
「何でもありません」
今は、考えない様にしよう。
ライオネルは頭の中から、先程の思考を振り払った。
その頃の3人、いや、4人は、幸せと言う言葉が似合っていた。
だけどそれから1週間も経たない内に、最初の不幸がやって来た。
リリィが亡くなったのだ。
出産で弱った体に冬の寒さは堪えたのだろう。
夜に風邪を拗らせ、朝になる前に、帰らぬ人となった。
医者を呼ぶ間もないほどあっと言う間の出来事だったが、例えそうでなかったとしても、医者が来てくれたかは判らない。
プレフィスの瞳は金だ。
それをこの村では悪魔の証だとして、ある者は恐れ、ある者は疎んで来た。
リリィと出会った頃には、プレフィスは村に行かなくても生活出来る様に、家畜や作物を作って賄う様になっていた。
だから本当はライオネルを家に住まわせたのも、予定外の事だった。
だけどそれをプレフィスが後悔している訳ではない。
そう、後悔しているのは。
「今日ほど、自分が恨めしく感じた日は無い」
諦めなければ良かった。
もっと努力していたら、リリィを助けられたかもしれない。
もしもの仮定が無意味だと判っていても、そう考えずにはいられない。
プレフィスは自分の代わりの様に、壁を何度も殴る。
「リリィ、お前は後悔していないか?俺と一緒になった事」
『当たり前じゃないですか』
リリィだったら、きっと笑ってそう言うだろう。
ライオネルは泣き崩れるプレフィスの背中を、只見詰めていた。
それが、ライオネルが死という物を、初めて意識した瞬間だった。
リリィが亡くなって、悲しみも和らいだ頃、最初の問題が浮上した。
それは、他の事はともかく、食事をどうするかだった。
話し合った結果、包丁を持った事も無いライオネルよりはマシだろうと、プレフィスが食事を作る事に決まった。
ところが最初に出来上がった食事は、焦げた魚に、しょっぱいスープ、切っただけのパンだった。
だけどリリィと比べるのも失礼なそれは、ライオネルには不思議と美味しかった。
特定の誰かの為に作られた料理を食べるという事は、其処に込められた愛情を食べるという事。
どんな豪華な料理だって敵わない、最高のごちそうになる。
だからと言って、育ち盛りのヨハンナに同じ物を食べさせる訳には行かない。
そうしてプレフィスが毎日努力した結果、ヨハンナが食事を取るまで成長した頃には、普通の腕までに上達していた。
プレフィスにとっても、ライオネルにとっても、ヨハンナは生きる支えだった。
プレフィス達はリリィの居ない分もと愛情込めて育て、ヨハンナは曲がった所の無い、心優しい少女に育った。
ヨハンナは寂しさなど、1度も感じた事は無い。
だけどヨハンナの為には、このまま他の人間に関わらずに暮す訳にはいかないだろう。
だからと言って、今更どうやって村人との距離を縮めれば良いのか判らない。
そんな風にプレフィスが悩んでいた頃の事だ。
村の方に怪物がやって来た。
「何処に行くんですか?まさか、戦うつもりじゃありませんよね?」
プレフィスがドアノブを握ったまま何も答えないから、ライオネルは強く拳を握り締める。
「どうして貴方が戦わなければいけないんですか?この村を守る義理なんて、貴方には無いでしょう!?
そう、皆で逃げてしまえば良いんです!!」
ライオネルは声を荒げるが、振り返ったプレフィスの顔に息を呑む。
それは、戦いに赴こうとしているとは到底思えない、穏やかな笑みを浮かべていたから。
「昔だったら、そうしただろうな。辛い事もあったし、悲しい思いもした。
だけど俺はこの村でリリィに出会い、ライオネル、お前に出会い、ヨハンナが産まれた。
俺がこの村で産まれ育たなければ、手に入れられなかっただろう幸せを沢山手に入れた。
だから、この村が荒らされるのは我慢ならないんだ。
それに、ヨハンナやお前に信頼し合える友や、愛し合える恋人が出来る可能性を与えたい。
その為に、俺は命を掛けよう」
プレフィスはふっと真顔になる。
「俺にもしもの事があったなら、ヨハンナの事は頼む」
その願いを跳ね除ける事など、ライオネルには出来なかった。
プレフィスが亡くなったと知らせが届いたのは、それから間もなくの事。
「お兄ちゃん。パパ、帰って来るよね?」
「それは」
ライオネルは思わずヨハンナから視線を逸らすが、黙っている訳にもいかない。
ライオネルは意を決して、ヨハンナに本当の事を伝えた。
「どうして?どうして!?どうして!!」
泣き叫ぶヨハンナを、ライオネルは抱き締める事しか出来なかった。
ライオネルはその後ずっと、プレフィスとの約束を守り続けた。
プレフィスの願いが届いたのか、少しずつ、少しずつ、村人とヨハンナの距離は縮まって来た。
ヨハンナが1人で生活出来る年齢になる頃、ライオネルが成長しない事が村人にばれ始めた為、傍は離れたが、それでも遠くから、ずっと見守っていた。
そしてヨハンナが幸せな生涯を送ったのを見届けた後、そっと村から旅立った。
それは、プレフィスが最後に言った言葉の意味を理解する為に。